昼想夜夢~Misty’s blog~

ネットの時代にテレビ勤め、ジャーナリズムにはまだほど遠い。学術の落ちこぼれだが、たまに考えたことを言いたくなる。/一介电视人,尚未攀上记者之名。心向学术而力不足。偶有三言两语。

『さらば、わが愛』の個人性 『ブエノスアイレス』の社会性

 

 最近立て続けに古い映画を観た。

 レスリー・チャン没後20年の記念で上映されている『さらば、わが愛』と去年から4Kリマスター版が続々と出たウォン・カーウァイ映画の『ブエノスアイレス』だ。『ブエノスアイレス』もレスリー・チャンの主演作品。レスリー・チャンのことを、彼が生きているときに名前を聞いたことがある程度で、彼の訃報を新聞で読んだ時にようやく認識し始めた。2本の映画とも、レスリー・チャンの麗しさが目を引き、高貴な部分も飄々としている部分も気だるい部分もすべて魅力的。

 それはさておき。映画を観て驚いたことがある。

 『さらば、わが愛』は中学の時に李碧華氏の原作小説を読んで、大学のころにネットからダウンロードした海賊版で映画を観た。多くの評論通りに、大河ドラマであり、中国の数十年間の激動の時代を、翻弄される人生を通じて描いたものだと認識していた。しかし、2回目にして初めてのスクリーンでの鑑賞で、まったく別の印象を抱いた。もちろん背景に歴史はあるけれど、実はとても個人的な映画のように思えた。どちらかというと、主役はレスリー・チャンコン・リーの2人で、この2人が1人の男に対する愛を描いたものだと感じた。これはきっと自分がより多くの経験をしてきたことに起因するものだと思うが、どんなに時代が移り変わり、戦争や革命でいくら社会が覆っても、人間は毎日激動しながら生きていくわけにはいかない。お金をどうやって稼ぐか、ごはんは何にするのか、楽しい遊びはあるのか、大事な人はきょうどんな気分なのか、そんなことのほうが大事なのではないかな。

 そして『ブエノスアイレス』、これは逆に、私的な感情を描くことで定評のウォン・カーウァイ映画から、まさかの社会性を見出したのだ。ウォン・カーウァイ映画は何本か観たことがあるが、『ブエノスアイレス』は初めてだった。俳優の演技は言うことなく(私はトニー・レオンが大好き)、映像や編集がとても美しく、そしてゲイのカップルの話だが恋における非常に普遍的な部分をよく表している作品だった。しかし、終盤につれ、鄧小平の死去するテレビニュースのカットや台湾でのパートから、香港返還直前の社会的な雰囲気をひしひしと感じることができた。一部の評論では、レスリー・チャントニー・レオン大英帝国海外国民のパスポートなどを意味深に解釈するのものや、かなり政治的にこの映画を説明するものもある。私は撮影の時点でそこまでのはっきりした意図があるとは思えないが、やはり時代の雰囲気を反映していると感じた。香港返還を前に、そわそわした、不安と期待が混じりあう感情だった。

誕生日

    生日一年一年变得难以接受难以祝福自己。

    到了这样的年纪,没有孩子是不是应该真心着急?但是我真的想要孩子吗?到了这个年纪在工作上并没有自己满意的作品该不该奋起拼命?但是我现在其实职场地位比起同龄人都要高,不该满意吗?到了这个年纪学术基础还是一塌糊涂到底该怎么办?这个可能真的只有着急,然后低头猛追了。

    我也知道人都是在羡慕嫉妒自己没有的东西,尽管那么多都是自己选择来的,尽管别人也是在羡慕你有而他们没有的东西。

    今天碰巧可以早下班。回家洗澡,削一个甜柿子,听着村上春树的广播节目,斟上为了生日准备的香槟。

    先悠闲地享受这一刻吧~

私も縛られた「ダイエット幻想」

 最近ハマっているYouTubeがある。テレビ朝日の三谷紬アナウンサーのダイエット記録である。10キロの目標を掲げて様々なダイエット法に挑戦する三谷アナウンサーが、体重測定の前にこれでもかとスラスラ出てくる言い訳の数々が実に面白い。

www.youtube.com

 たしかに華奢なアナウンサーが多くいる中、三谷アナウンサーはぽっちゃりに見えてしまう。でもとても健康的だし、着物によく似合う美人だ。そこまで痩せる必要はないけど、画面に出る人なんだから、せめてそのお腹をどうにかできないかと、私も思ってしまっていた。

 その三谷アナウンサーの動画にハマっている最中に読んだのは、文化人類学者・磯野真穂氏の『ダイエット幻想』である。

www.chikumashobo.co.jp

 辛うじて社会学を齧っているので、本書の論点の大部分はわかっていたが、可読性と理論がわりかしいいバランスを取れている本であった。興味深いことを何点か挙げてみよう。

 厚労省の調査結果を基に論じられた「結婚相手に望む条件」(P56)では、日本の男性が女性の容姿を重要視することを取り上げている。小さいときに男女問わずに勉学に励むように言われていることが、男性の場合、それが結婚の条件と直結していて矛盾しないに対して、女性は結婚する際に、勉学とまったく関係のない容姿を要求される理不尽な状況に直面することになる。「…年月が経過すると、経済力をつけ、良い職業を持つことが奨励される一方、それよりもまず外見で判断されるという新たなダブルスタンダードが課されます」(P57)と。

 また、女性が集まる場所でよく起こる嫉妬やいざこざについて、先行文献にもあるように、常に「選ぶ」男性に対して、「選ばれる」側に位置することに起因していると指摘している(P97)。女性が社会進出する時代でも、女性誌では「意志ある愛され顔」と二つの相反する要素を売り出している。ボーヴォワールの『第二の性』についても多くの記述があるが、自主性と自立から逃れて、選ばれる、愛される側の「第二の性」に甘んじる女性を痛烈に批判しているらしい(その立場ならではのアーレントユダヤ人への批判も同じようなものなのか)。

 そして、カロリーや糖質、体重などの数字に拘りすぎる結果、「脱文脈化」(P126)が起きると、これもまた核心の突く指摘である。「おいしさ」を失ってしまった食事には、その本来の生きることの意味、食事の目的から遠く離れたのではないかと。

 最後に、私が初見理解できなかった「食べられることは、無限定空間で生きられること」(P172)という部分。「ふつうに食べるとは、そんな刻々と変化する世界に、ふわっと入り込んで身体を馴染ませ、その中でたいした意識をすることもなく、食べ方を微妙に調整しながら心地よく食べられることであり、頭にため込んだ知識で、食べる量や内容を管理することではないのです」(P172)。ちなみに、「無限定空間」については「日々変わり続ける私たちの世界のことを指し、人工知能はこの中でうまく動くことができません」とわかりやすくなるように解釈している(P174)。世界としっかり関わりながら食べることを薦められている。

 私は20代前半まではあまり太らない体質で、かつおじいちゃんやおばあちゃんと同居していて、祖父祖母世帯はしっかりした体格のよく食べる子どもが好きで、ダイエットは絶対ダメとよく言われていたので、あまり体形に気にすることなく育ってきた。それでも、高校の時にお母さんの体重を笑ったりした、大学時代にダイエットに励む映画スターのようないとこを見て痩せたいと思ったりはした。そして、一部のネットユーザーのように、三谷アナウンサーの体形を「あまりテレビに出ている人としてはどうかな」と思ってしまったのだ。

 いままで結婚や女らしさなどなど、さまざまな呪縛に気づき闘ってきたつもりの私は、思わず恥ずかしくなってしまった。そんな気づきをくれた一冊の本ではある。

新興宗教の長男という生き方

 日本に来るまでは、新興宗教に関する認識はあまりありませんでした。池田大作氏の著書が中国のどこの大学図書館にも「哲学」の棚にずらりと並んでいて、すっかり日本の重鎮哲学者だと思っていた具合だ。

 しかしいざ来てみると、新興宗教の多さに驚いたと同時に、いささか面白く感じていました。幸福の科学も、まさかの生きている人間をも召喚できて、時事ニュースに敏感に反応した霊言本の出版を面白おかしく眺めていた。

 その教祖の長男として生まれ育った宏洋氏が幸福の科学を脱会して、本を出版しました。
books.bunshun.jp

 新興宗教の後継者だと目論まれた人物は、何を語ったかに興味を感じ、読んでみました。

 基本的に、非常に簡単で短い文章で書かれていて、そこまでライターが入っていないだろうと感じました。前後に若干矛盾しているや、きっと自分の行動を美化しているだろうと思うところもありますが、やはり教祖家内部の証言があまりなかった分、面白かったです。

 教団を会社だという風に考えて、「競合他社」のほかの新興宗教や病院などを目の敵にする教祖の姿や、それを理解したうえで安泰な生活の保障として選ぶ子供たちの心中を宏洋氏が描く。しょっちゅう変わる秘書に教育され、離婚する両親のどちらにもとくに情を感じなく、母親につくことを誰も選ばなかったその冷たさが、生まれ育った環境を考えれば仕方がなかっただろうが、やはり可哀そうに思ってしまいます。

 東大法学部を出ていた教祖が、子どもたちに課す高い目標と、信者に進める大卒資格ですらもらえない自身の学園への進学の矛盾や、政治活動への執着など、実に大いにあり得る人物像が浮かび上がります。教祖は、その考えが現実的かどうか、良心的かどうかを別にして、行動力がある人間であることもよくわかります。

 宏洋氏は教祖家を離れたり戻ったりと何回か繰り返していますが、この本は徹底的な離脱を自らを決心させるものでしょうか。生まれにかなり振り回されているが、地道に、素直に、堅実に生きていくことを祈ります。

我的非典经验(上篇)

    新冠气势不减,现在不仅是欧美难以摆脱困局,日本这个莫名其妙撑了两个月的东亚国家,也开始进入爆发增长的阶段了。

    而震源地中国,现在倒是一副从冬日中醒来,即将欣欣向荣的复苏景象。

    上一次冠状病毒在中国肆虐,还是2002年冬天开始的非典。

    非典刚开始的时候我还在日本留学,当我2003年春天回家之后,才渐渐开始感受到非典的存在。

    我的家乡虽然当时也是风声鹤唳,比如某学校出了疑似,整个学校会停课。比如某小区出了疑似,房价也会大跌。不过对于当时还是高中生的我们来说,生死还是很远,非日常的事情总会有些令人兴奋。

    早上出门家长总会让我戴上口罩,那时候自然还没有普及一次性的口罩,模糊记得应该是纱布的。然而口罩戴到公交车站就算不错了,上了车碰到同学,就会互相萌生出“戴口罩好矬”的心情,然后一起把口罩摘了聊天。现在想想真是不应该。

    而听说附近学校有学生高烧,被判定为疑似,于是全校放假,大家心中都挺羡慕,互相撺掇谁去发个烧嘛。后来真有同学住的楼里出了疑似还不知道是确诊,总之一栋高层建筑被封了,好久不能来上课。有一天大家却已意外的方式得知了他的近况。这位同学穿着全市人都认识的校服,登上了地方报纸的头版彩色照片。并不是什么好消息,是“隔离不严,可以夹着封锁线近距离说话”。然而这张照片还是引爆了大家的笑点,报纸在各个班传看,还被投影固定到了大屏幕上。

    非典还给了我一个绝好的机会,实现一个早就垂涎欲滴的梦想。这个,下篇再讲。

三色杯的记忆

    今天在推特上看到一个令人怀念的东西,三色杯。

 

     小时候我家原则上是不给吃零食的,偶尔有亲戚送的外国的或者外地的点心,才会非常有组织纪律的在每天放学后分得一块。夏天的冰棍也是这样,每天一根是绝不可能的。有一次听说楼下的邻居哥哥一天吃了好几根拉了肚子,觉得很奇怪,一天怎么能有好几根吃呢。

    能吃的话也是便宜的为主。有一段时间是自己做,把果珍用模子冻上,就是橘子味的冰棍。味道不错,但是一唆就会把味道都唆掉,剩下一根白水冰。

    买的话呢,当时最普遍的是赤豆冰棍,我妈爱吃,但是我不爱吃。又硬又冰,并且红豆也不是我非常喜欢的东西,然而并没有什么挑三拣四的余地。稍微奢侈一点点可以买“花脸”,这是冰淇淋,我爱吃,巧克力味和牛奶味组成了一张脸,吃起来比较有趣。

    当时南京最流行的乳制品牌子是光明,光明冰砖也非常受欢迎。一整块实实在在的浓厚的冰淇淋,很好吃。但是也许是因为价格比较贵,所以我几乎没怎么吃过。

    三色杯在夏天,对我来说是一个大大的奢侈品。很少能吃,因为量比较大,一下有三种味道——牛奶,草莓,巧克力——尽管现在想来都挺淡的,另外价格也明显比别的冰棍要贵。能吃上三色杯一般是去北京姥姥家的火车上。上了火车我妈就会大方一点,也有可能回娘家让她心情好,对我也可以比较宠一点。

    还有一盒三色杯印象深刻。小学四年级的时候我妈带我去北戴河旅游。每年夏天中国共产党长老会在这里开北戴河会议,这里也有不少高官的别墅。林彪别墅是北戴河的一个重要景点,自然要去。但是我妈说她去过的,为了省钱(写着写着觉得我家怎么听上去这么穷。汗),我妈让我自己买票进去,她就在门口等着。

   没想到林彪别墅里面展示很好看,比如毛主席如何批林彪,在会议上说“唯恐天下不乱,大有炸平庐山,停止地球转动之势”,连个小学四年级学生都觉得活泼有趣,导致我在别墅里停留了很长时间。又因为林彪随时准备着后路,别墅有好多暗门暗室,稀里糊涂出来之后,早就超过我妈预想的时间,而且发现根本就不是进来那个口了。

    这下有点慌,毕竟自己人还小,又在一个陌生的地方,从小还是个路痴。但是强装镇静,开始走起来找我妈,并且还在心里考虑好了一个计划,如果自己找不到,就借一下旅游团阿姨的大喇叭,呼叫一下。好在走了大概十分钟,走回了一开始的入口。

    其时我妈也慌了起来,开始四处找我。这辈子我没怎么看过我妈慌,林彪别墅是一回。我妈先问了我万一找不到她怎么办的预案——这时候还不忘考试,在表扬了我的沉着之后,她就去旁边的小卖部买了一盒三色杯给我。旅游景点的三色杯肯定很贵,但是我妈那天毫不犹豫就买了,我估计她想要压压我的惊,也要压压自己的惊。

    三色杯吃完,北戴河之旅还要继续。

    北戴河的海是黄的,让第一次见到海的我有点失望,但是在海边看到了满天星辰,躺在海滩上一眼就找到了沉坠下来的北斗七星。很美的。

電車の人が減らない

 東京でとうとう一日の感染者数は3桁になった。なかなか検査してもらえない人が多いことも聞くので、きっともっといるはず。なので驚きはしない、むしろこの数が出てくるのは遅いぐらいだ。

 しかし自分の仕事はやはり通勤が必要。テレワークもできるが、お子さんのいる人や体調が芳しくない人を当然優先するので、自分の番はなかなか回ってこない。電車に乗るのは嫌だけれど、乗っている。

 そして今朝も乗った。土曜日だ。土曜日なのに都心に向かう電車に座れなかった!みんなマスクをして仕事に向かう風貌だった。うむ、決して自分の仕事は人より上だと思っていないが、多くの店が休んでいるのに、こんなにも仕事に向かう人が多いのだと驚いた。

 はあ、平常時の満員電車ももちろんストレスだけれど、この状況下でも人の減らない電車のほうがもっとストレスだ。早く、政府にもっと強力に家にいろとのメッセージを出してほしい。考え方の古い上司たちにもっと思い切った働き方改革の決断もしてほしい。

 だって、みんなのためだよ。