昼想夜夢~Misty’s blog~

ネットの時代にテレビ勤め、ジャーナリズムにはまだほど遠い。学術の落ちこぼれだが、たまに考えたことを言いたくなる。/一介电视人,尚未攀上记者之名。心向学术而力不足。偶有三言两语。

物持ちの良すぎる

 季節を問わずに愛用しているユニクロのボタン付きブランケットを、やや乱暴にボタンをはずそうとしたら、プラスチック製のスナップボタンの軸が飛んでしまった。

 夫とペットとお揃いで買ったリサ・ラーソンの柄のフリースブランケットで、可愛いし素材の触り心地が良く、ボタンがついているので肩や腰に巻きやすく使い勝手も抜群。おまけに洗濯乾燥もしやすいのでとても気に入っている。

 調べたら7年以上使っている。思いっきり新しいものに買い替えようかなと迷ったけど、結局百均でスナップボタンを購入して、付け替えて引き続き使っている。

 そもそもあまり高価なものを持っていないが、ユニクロのシャツでも最低5年は着ている。最近は服を買わない年も設けようと思って、さらに買わなくなった。それでさらに着込むようになった。

 自分はおそらくあまり物欲の高くない、物持ちが良い人間だと思っている。

 最近買い替えたものを考えてみると、15年以上使っていた、地元の小さな店で当時1500円ほどで買った財布を誕生日にハイブランドのものを夫にプレゼントしてもらった。そして5年使ったスマホを替えた。安い財布を15年使ったのもすごいけど、人によっては1年ごとに更新しているであろうスマホを5年快適に使ったのもすごい気がする。

 そういえば高校の時に、お父さんからおがりでもらったジャージを、ブランドものを一切買わない我が家では珍しいちょいブランドのものだったこともあり、当時から大事に使っていた。そして日本にまで持ってきて、社会人になってからも動きやすさが必要な仕事でバンバン活用していた。

 思い出のものとなるとさらに捨てづらい。小さいころから、ハサミが必要になるとおじいちゃんおばあちゃんの部屋に行って、すこぶる古風なハサミを借りていた。いまではもう絶対販売されていない、プラスチック製の糸が滑り止めとして持ち手に巻き付けられているものだ。これも日本に来る時にもらってきた。当時は日本のものが高すぎて、留学生は生活用品を持てるだけ持ってくる時代だった。

 そのハサミはすでに錆びだらけで、切れ味も悪くなり、あまり使い物にならなかったが、おじいちゃんが亡くなってからなおさら捨てる気になれない。それで研屋さんを見つけて、ハサミを出した。

 かなり古いハサミで、錆びもひどいので、戻ってくる時にはだいぶ研がれて刃の部分が短く丸っこくなったが、切れ味がだいぶ良くなった。これでまた長く使えると思って嬉しかった。

 写真に撮っておばあちゃんに報告したが、おばあちゃんはあまり思い入れがない様子でそっけなかったのも、ドライなおばあちゃんらしくて、また面白い思い出になった。笑

『長安のライチ』~下級官僚の悲哀と気骨

 中国で映画が大ヒットし、日本でも上映した『長安のライチ』の原作本、しかも中国語の原作『长安的荔枝』が公共図書館に置いてあることを発見!さっそく取り寄せて読了。

 2日に分けて読もうかと思ったけど、半分読んだ時点でもう今日は少し夜更かしするしかないと覚悟。それでも数時間で読み終えたので、さほど負担ではなかった。

 作者の馬伯庸は中国で「馬親王」として親しまれたベストセラー作家で、誰もが知る楊貴妃がライチを遥々長安に届けさせた話に基づき創作した本作も、スピーディーに展開するエンタメ小説だ。

 腐りやすいライチを新鮮なまま、現在の中国の大陸最南端から西安までの5000キロ超の遠路を運ばせる不可能な任務を、下級官僚が実験と計算を重ねて挑むストーリー。様々な理不尽さや不慣れな政治闘争に耐える主人公の姿に、つい応援したくなる。しかし、その裏側にある大きくて決定的な間違い、つまりここまでして楊貴妃を喜ばせる正当性の不在にも、時々気が揉んでしまう。主人公である下級官僚の悲哀に共感し、最後に見せられる気骨、人間の正しさにホッとする読書体験だった。

 中国の歴史に詳しい馬伯庸ならではの登場人物やディテールも面白かった。

 ただし、数時間で読み終えるエンタメ小説だから、日本語の訳本の値段の高さにびっくりする。2800円超えは、なかなか躊躇う値段だよね。Amazonの口コミにもみんなそう書いている。

books.bunshun.jp

 馬伯庸がコロナ禍中に、日本の『超高速!参勤交代』などいくつかの下級武士を描く作品からヒントを得たと書いてあることも興味深い。歴史に書き残されることのない下級官吏の仕事と生活は、きっとどの国もどの時代もさほど変わらないだろう。

 Amazonにある口コミに「こんなに書いて大丈夫か心配になった」というのがあるが、私もそう思った。だって今の官僚システムと国家装置もたいがいこういうもんだ。でもどうやら馬伯庸にはほかの作品も現実を投影させるものがあるらしい。読みやすいし、今度『西遊記事変』(中国語名:太白金星有点烦)も読んでみようと思う。

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自分の望む死に方は何だろう~『エンド・オブ・ライフ』

 最近なぜか「死」「命の終わり方」に関する本やドラマを集中的に読んだり観たりしてきた。タイミングとしてはどれもかなり偶然だが、ちょうど老齢のペットが一度死の淵を彷徨ったのと同時期だったので、より身につまされる思いになった。

 佐々涼子のノンフィクション『エンド・オブ・ライフ』もその中の一冊だ。ノンフィクションでありながら、小説のような文体で、重い話題に関わらずサクサクと読み進められた。

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 人はそれぞれ違う。死に関する考え方や感じ方に、「みんなそうだ」ということはあり得ない。本書を読むと、人間が一人ひとり持つ特殊性がより際立って感じる。何を一番大事にしているかも、人によってこんなに違うのだと感心する。

 死を目前にして、生活が著しく不便になっても生活でのこだわりを捨てられない人、家族に罰当たりして常に怒る人…私の祖父も足が弱くなっても頑なに杖を拒み、家族が困っていたけれど、それは祖父のプライドだったのだろうと、今はもっと理解できる気がする。また、自分もこだわりやプライドを捨てることができないだろうと思ってしまう。

 まあともあれ、こうした人間の持つ唯一無二性を大前提にしてから、いくつかの感想を振り返る。

受容は段階を踏んでいるわけではない

 死を受容するのには、必ずしもエリザベス・キューブラー=ロスが提唱した「受容の5段階」(否認→怒り→取引→抑うつ→受容)を順番に踏むわけではないと書かれている。今日受容したと思えば、明日また怒りの段階に戻ってしまう。そして、余命告知の前には「生への未練はない」と話せるが、いざ死に直面するとまた状況が違うこともよくあるらしい。

 そして、「運命」たるものを信じるか。すんなり信じなければ、意味を探す旅に出てしまうのである。

病気の意味を探す人

 著者の佐々涼子は本書の中で、何度も人間が意味のないことに耐えられない旨を述べている。

  病を得ると、人はその困難に何かしらの意味を求めてしまう。自分の痛みの意味、苦しみの意味。人は意味のないことに耐えることができない。だからこそ、自分の生き方を見直してみたくなる。(P184)

 これはたしかに多くの人に当てはまることである。現在陰謀論が蔓延ることにも、何もかもに理由と意味と真相を求める人間の性がある。

 生きる意味を探し、死ななければならない意味も求める。本書の中には、痛みに「スピリチュアル・ペイン」という種類もあると書かれている。とくに終末期に体験することがあるらしいので、私にはその実体験はないが、意味を絶えず求めてしまう人間には、こうした精神的な苦痛から肉体の痛みを実際きたすことも納得である。

生きる/死ぬ意味と宗教

 人間は絶えず「意味」を求めるゆえに、スピリチュアルに傾倒し、宗教に頼る。本書の中に出てく多くの終末期患者もそうであるし、著者の佐々涼子も体調の悪い時期には宗教巡りをしていたと書いている。

 意味を探して宗教を信じるようになるのは、生への執念なのかもしれないと思った。私は数年前に亡くなった祖父を思い出す。祖父は最晩年、人生で信じてきた唯物論と違うものをふらふらと頼るようになった。また、理不尽すぎる現実と向き合いながら、宗教を信じるようになった拉致被害者家族や巌さんも思い出す。

 しかし、佐々涼子は宗教を知るタイミングも大事だとする。

 ひとつだけ経験として得たのは、宗教というのは信じようと思って信じるものではなく、運命的に出会ってしまうものらしいということだ。私と宗教の出会いは、早すぎたのかもしれないし、遅すぎたのかもしれない。もし、私が重い病を得たら、今度は信仰に「落ちる」のかもしれない。だが、少なくとも今は信仰に篤いとは言い難い。(P185)

 そういう意味では、家にいるペットは少し前に生死の淵を彷徨ったが、生きるや死ぬの意味を探さずに、ただただ一日一日、ご飯を食べて水を飲んで寝て懸命に生きようとするのは、とても純粋に思える。

死期は予感できるらしい

 突然降りかかる事件事故による死は予知できない。でも癌などの病を得る人は迫る死期を予感できると書かれている。しかし、予感できていても、「来年も桜を見られますか」などと曖昧な質問で医者に尋ねる人々の姿も描かれている。興味深いのは、医者から「自分はどう思う?」と聞き返されば、死期はもうすぐ目の前だと受け入れるのである。すでに予感できていることを、医者に希望を求めてしまうが、実は自分でよく知っているらしい。

 そして、確実な死期を知ると、不確実性への怖さがなくなり、清々しく無駄なく生きられるという人も多い。

愛する人のために生きたいか、愛する人を介護したいのかーー動けなくても、意思疎通ができなくても

 著者の佐々涼子の母親は難病ですでに体が動くことができず、意思疎通もできなくなっている。それでも父親の懇願によって生きることを決意し、そして父親はしっかり最後まで母親をきれいに在宅介護をやり遂げた。

 そういう愛の形もあるんだなぁと感心した。その母親は自分がどういう状態であれ、夫が自分がいないと生きていけないと、意志も体も殻に閉じ込められた状態での生を選んだ。そして、その父親は妻とまったく意思疎通ができない状態でも、生きているさえいれば愛し、ケアし、心の安寧を得られると妻に生を選ぶことを懇願した。

 私はいままで1度だけ、けがの手術のため入院したことがある。ベッドから降りられなかった2日間だけでも、苦痛で仕方なかった。将来老いを迎えたら、体が自由な時に死にたいと思った。もし自分の意思と思考を伝達する手段を失ったら、それも死と同等だと思っている。だから、体の耐え難い苦痛や治る見込みのない重大な病気になった時、安楽死を選択したいと考える。そのことを、夫にも伝えている。

家はその人そのものだから、家で死にたい

 そもそも本書は在宅看護をテーマにしたノンフィクション作品である。佐々涼子も本書の中で指摘しているが、在宅看護の制度ができて以来、在宅看護が病院での看護よりずっと優れたものとして称えられてきた。

 しかし、果たしてみんながみんな、家で死ぬことを望んでいるのか。どこかで見たのが、韓国では病院で専門家のケアを受けて死ぬことを望む人が多いんだとか。たぶん中国でもそうだと思う。

 佐々涼子の父親は母親の看護を完璧に家でやり遂げたけれど、本書の中に出てくる在宅看護の家族は、疲弊や苛立ちに苛まれる人も少なくない。ケア労働は、クローズドで体力も大変で、そして褒められないものである。中国では「久病床前無孝子」(長い病床の前には親孝行の子どもがいない)と言われるが、私も長く愛する家族の介護をこなす自信はない。そして、自分の介護を、夫にお願いしたいと思わない。

 佐々涼子は、みんな家で死を迎えたい理由として、「家はその人そのものだから」と書いている。本書の中に出てくる、家で穏やかに亡くなった人たちの家は、その人の趣味や人生が詰まったようなものである。本人も家族も、家への愛着を強く持っている。

 で私は家にそこまで愛着があるか。ファッションや注文住宅を見るのが大好きだけれど、自分で実践したいわけでは全くない。ユニクロの没個性の服が最高に着心地が良いし、画一の都市の現代マンションで十分快適に過ごせている。現に中古マンションに、リフォームをせずに入居して満足している。だから私は、病院のベッドはあまり好きではないけれど、家族に手間と心労をかけるまでして家で死にたいとは、いまは思わない。

そのほかの感想

 以前の医療は「治す」行為に重点を置いていた。治る人にだけ相手にするものだった。でも痛みを緩和することや、終末期(つまり治る見込みのない人)への医療行為は無駄だと思われていたようだ。しかし、いまの医療は、治すだけではなく、「癒す」行為でもあるべきだという変化が生じている。

 それから、本書で知ったのは、痛みをコントロールする技術はすでに発達しているのに対し、かゆみのコントロールはまだほとんどできないということである。私はたぶん痛みにとても弱い方だと思うが、湿疹ができて痒くて眠れない夜のほうがもっとつらかったように思う。かゆみコントロールの研究も進んでほしいのである。

『贖罪 殺人は償えるのか』~想像力を持とう

 少し前から話題の本を、いまさらながら読んだ。

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被害者の加害者への感情は人それぞれ

 最近のいくつかの読書を通して、とてつもなく当たり前の感想を得ている。「人それぞれである」と。でもすぐに人のことを「常識がない」「普通ではない」と攻撃してしまう今の世の中では、案外忘れられていることなのかもしれない。

 ともかく、家族が殺された遺族も、加害者への感情はそれぞれ違う。共通することもあれば、そうではないこともある。許す・赦す・忘れることを選ぶかどうかも、それぞれ。

 2015年のパリ同時多発テロの遺族が、「憎むことはしない」との文章を見かけた際には、とても理解に苦しんだ。私だったら、すべての気力を振り絞って憎んで報復したいだろうと。

過激派を「憎まない」 パリ同時テロ遺族の文章、共感呼ぶ - 日本経済新聞

 しかし、最近は少しずつ、その気持ちもわかってきたように感じる。覚えて憎み続ける、嫌いであり続けることはとてつもなく自分の気力も削がれていくので、自分にとって大事なことや人に生きる力を使いたい気持ちであろう。

 あるいは、2026年のピュリッツァー賞を受賞した中国系作家のイーユン・リー氏は、自死によって2人の息子を失っている。彼女は「悲しみは必ずしも忘れなければならないものではない」と語っているが、忘れずに、でも自分の生活を崩さずに悲しみ・痛みと共存する選択肢もある。

軽々しく発してはいけない「謝罪」「贖罪」

 仕事柄、事件に接することが多い。「罪を償う」「贖罪」というような言葉もたくさん目にしてきた。最近は受刑者の社会復帰や、加害者家族が浴びせられる差別問題に目を向ける報道も多い。しかし、著者は長年の被害者取材を通して、本書でも徹底的に被害者側に立つことを前提として読まなければならない。

 私は元来、死刑廃止に懐疑的である。いろんな事件では、被害者が受ける理不尽さにも愕然とする。当然加害者にも人権があるが、素朴な感情としてはまず被害者とその周りを労わるべきであり、人殺しには命で償ってもらうしかないと思う部分が大きい。

 本書では、カントの「人を殺害したのであれば,死ななければならない」(『人倫の形而上学』)が時々引用されている。哲学的、法学的にさらにいろいろ深い論考がなされていることを承知のうえ、あえてまた素朴な感情としてこれを引用しておく。そして、素朴な感情として、私はこの一文に深く同意する。

殺人に贖罪はあり得るのか

 そこで受刑囚で加害者の水原が、著者との文通で、殺人は償えるのか、どういうふうに自らが生活していれば償うことに近づけるのかを問い続けていた。

 自制すること、自分を知ること、謝り続けること、お金を支払うこと。そして、被害者遺族のその時々の気持ちと要望を優先すること。当然ながら、遺族の心境も時間の経過によって変わるものである。

 村上春樹が日本の戦争責任についても、「相手国から『十分に謝ったのだからもういいよ』と言われるまで、謝り続けるしかないのではないか」と述べていたように、謝罪のもっとも基本的なことだと考える。

 それでもやはり殺人には贖罪は不可能なのではないかと、水原からも著者からもそういう考えが伝わってくる。

 どうせ贖罪は不可能なのであれば、すでにこの世にいない被害者よりも、生き長らえている加害者の自身を優先する考えがが芽生えるのも無理でもない。ましてそもそも加害者に反省の意すらないことが多い。自分でさえ、人を傷つけたり、間違いを起こしたりした後に、用心深く注意しなければすぐに自己弁護や自分の都合のいいように解釈しようとする傾向があるのに。

読書して言葉を獲得することは、いかに思考を深められるか

 果たして殺人は償えるのかという問いは、おおよそ本書の著者も囚人の水原も否定的の意見である。被害者遺族に個人差があるといえど、ほとんどはやはり殺人には贖罪なぞ果たせないであろうとの感情が浮かび上がる。読む人にとっては当然ながら、あまり明るい話ではある。

 ただ、本書の中で非常に感心したのは、受刑囚の水原が手紙にしたためた言葉と思考の数々。そして、彼がいかに深い思考を獲得してきたのか。獄中の凄まじい読書量によるものである。

 想像力を欠き、浅はかな少年時代を過ごした水原が、獄中での読書によって言葉を獲得し、そして言葉を蓄えたことによって思考を深めていき、贖罪や反省についてかなり自制的な考えを書きつつも、言葉と思考を手にし、そして手紙によって表現できた喜びと興奮は、往復手紙の中でひしひしと伝わってきた。

想像力を持つことは犯罪を防ぐ

 水原が言葉、そして思考を獲得したことで、人の気持ちを慮る想像力も獲得していったのである。この想像力の欠如が、彼、そして多くの加害者が犯罪に走った大きな要因であろう。水原は贖罪を意識できるのも、被害者と被害者遺族の人生・生活・気持ちを想像できるようになったからこそである。

 最近のSNSではよく「私のもやもやした経験」という類の投稿を見かける。そしてコメントで決まって「他人よりも当然自分の気持ち良さを優先すべき」「自分がスカッとすればいい」というようなアドバイスで埋まる。なんとも荒んだ時代である。もちろん私もわがままな他人を絶対優先しようと思わない。でも他人の気持ちを想像することは大切だと思う。

 人の困り、痛み、自分に降りかかったらどうなるだろうなど、こうした想像力を家庭や学校教育で育むことが犯罪を防ぐ最初の防波堤かもしれない。

 

最高にかっこいい還暦!~「ROOTS66 -New Beginning 60 SPECIAL-」

 いままでの音楽ライブの中でトップクラスに良かった。非常に満ち足りる気持ちになり、一番ライブ感としてよかったし、共感できるステージだった。

ミーハー心でチケット購入 「注釈付き」の良席!

 大槻ケンヂがキョンキョンの隣でデレデレする記者会見を見て、ライブ行ってみたいなぁと思うようになり、争奪戦の中なんとか東京ガーデンシアター公演の「注釈付き」を2枚ゲット。

 これは思わぬ良い席だった。端っこのバルコニー席だけれど、ステージに近く、肉眼でアーティストの姿を見ることができたので、音とのタイムラグもなく楽しめた。そしてガーデンシアターの音響は良いので、端っこの席でも問題なかった。(ほかのライブだと席によっては音が割れたりすることもあるので…)

還暦の声に驚愕 音量も音質もピッチも

 豪華すぎる出演者だとわかるが、実は半分ぐらいの方について音楽を聴いたことがない!でもそんな些細な心配も、開始すぐ払しょくされた。

 とにかく、みんなすごく声が出ている!音量もしっかりあり、音質も明るくかつバリエーションがあり、ピッチもばっちり。こう書いているとミュージシャンだと当たり前なのでは?と思われるかもしれないけど、意外とできていない人が多いんだよね…夫曰く、今回のライブは「この人、次の高音歌えるかなってハラハラしない」だって。まさにそう。歌唱能力にまったく気をとられずに安心して聴ける。

 そして、還暦を迎える男性陣、みんな細い!革ジャンやピタッとするパンツが本当に似合っている!女性陣も素晴らしく、斉藤由貴の魔性感にスリリングさすら感じてしまった。

 歌声もスタイルも、ライブを続けているからキープ、いや、鍛えられているものだろうか。

 ただ、やはりコラボも多いからか、歌詞はなかなか覚えられないみたいで、みんな歌詞モニターをよく見ているのが面白かった。笑

 あと、皆さんの普段の性格をよく知らないと前置きしないといけないが、おじさんになったらみんな素直になるのかなと思った。ダジャレを我慢できなかったり、憧れのアイドルとの共演に笑みがこぼれたり、格好つけない姿も面白かった。

イマジンで涙溢れる

 実は、HPを見た時からグッときている。少し引用しよう。

 「昭和から平成、そして令和へ……。希望と失望、拡大と分断が交錯する時代を歩みながら、海の向こうの惨状を横目に、僕らはおよそ無邪気に平和と繁栄を享受してきました。ところが、60年前とは比べものにならないほど科学技術が進歩し、豊かになったはずの世界でいま起きている、安寧が遠のくばかりのニュースを前にすると、やんちゃに還暦を迎えるはずだった僕らも、やはり責任と役割を自問自答せずにはいられません。
…「きっと、この世は生きる価値がある」そう思える歌を鳴らすために。」

roots66.jp

 ライブでは、これも誕生60年のウルトラマンが怪獣を退治した後に始まった、忌野清志郎が日本語詞をつけた「イマジン」に、さらにじーんときて、じわじわと涙を浮かべてしまった。

 「国境も無い ただ地球があるだけ」「社会主義も 資本主義も…みんなが同じならば…」

 日本で長く暮らしてきた外国人として、去年の参院選から顕著になった排外主義を感じ取り、コスモポリタニズムや平等で平和な社会作りがどんどん遠ざかってしまい、非常に失望、もはや絶望しているところだった。

 インターネットにとどまらず、現実社会まで広がった、寛容と余裕を失って、互いを責め立てて敵認定する荒んだ雰囲気では、孤独感も深めたところでもあった。

 「夢かもしれない でも その夢を見てるのは きみ一人じゃない」

 このフレーズに救われるまではないけれど、少しだけほっとした。そうだね、きっと一人ではない。もう少しだけ、信じていこうと。

とにかくLIVEとして最高!

 今回のライブは、次から次へのヒット曲が飛び出るし、バンドも申し分ないどころか贅沢すぎた。ライブ構成に緩急もあり、終始飽きることなく引き込まれる体験となった。

 ライブにたくさん行っているわけではないが、最近自分の中で、歌唱能力は一定水準に達することはもちろん、何よりも「LIVE感」が重要だと思い始めた。CDをそのまま聴いているのではなく、その場でしか感じない感動や熱気も必須。

 ライブを開くのはもちろん労働ではあるが、ただただ仕事のためにやらされている疎外労働じゃLIVE感がない。今回は、とにかく一人ひとりが歌うこと、演奏することを心から楽しんでいるのが伝わり、観ている側もとても楽しくなったのが最高!

 還暦ライブだったのだが、還暦は全然お年寄りではないことを確認した。「60歳でもこんなに元気にいられる人たちもいる!」と勇気づけられたのではなく、単純に皆さんすごく楽しそうだったので、自分も年を取るのが楽しみに思えた。

 最高なライブを観たあと、頭の中に浮かんだ言葉は「fulfilled」、満ち足りた気持ちになったのだ。でも受け止められないほど「overwelled」ではないというのも、心地よい。

 そして、翌日にはさっそくレポートを盛り込む雑誌(会場で配布されたのも十分に豪華だけど)を注文し、人生初のライブTシャツも注文しちゃった。10年後も行けたらいいなぁ!

 

追伸:会場で配布された限定のFM復刊の『FM STATION』に、大竹しのぶが書いた斉藤和義宛てのお祝いメッセージが、シャイな斉藤さんをからかっているようで、魔性すぎてすごく面白い。これはぜひ、みっちゃんこと清水ミチコに、大竹しのぶの声で読んでいただきたい…!

「渋谷の北朝鮮」は現代民主主義の縮図~『ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス』読後感

 東京の一等地で目にする、白い壁に水色の屋根と、南欧風情でおしゃれなマンションシリーズ「秀和マンション」の一つ、幡ヶ谷レジデンスが、「渋谷の北朝鮮」と呼ばれていることを知ったのは少し前の週刊誌記事だった。

 自分も以前マンションの内見でとある秀和マンションに入ったことがあるが、古いマンションでありながら、ときめきを感じさせてくれる物件だという印象だった。その個人的なわずかな接点もあり、その後、インターネットで秀和幡ヶ谷レジデンスの行く末を追っていた。

 そして、少し前にようやく住民側が自治権を勝ち取ったことを知り、その一部始終がルポルタージュとして出版されたことを知る。

mainichibooks.com

 ルポをパラパラ読んだ感想、これは「現代民主主義の縮図」だと思った。なぜなら、大前提として管理組合側、この件の独裁者側は長年、大多数の信任を得て民主的に地位を得てきたからだ。大多数の住民が委任状という形で、我慢あるいは無関心でやってきた。

 

現代民主主義と思わせる部分

・不可解な管理ルールが多くても、多数決で覆されない管理組合

・ほとんどの住民が出席せず「委任状」だらけの総会

・生活に不便が多少あっても、我慢でやり過ごす大多数

・まっとうな人ほど過激な運動を嫌う傾向

・運動の期間に権力側の嫌がらせによって疑心暗鬼が生じる

・法律に則って運用することによって、「管理組合は3人の弁護士を同席させていたことが仇となる」という総会で権力側が敗れる皮肉な結果もあり得る

・運動を通してマンション自治に興味が高まったと変化があった。成功体験や知識の増加や連帯感などで、有権者にも責任感が生まれる良い変化があり得る

 

あっちこっちで見る民主派・リベラル派の内部分裂にも共通する。住民活動の闘い方としては

・最終目標は一緒でも手法でもめるなど、運動組織内部に亀裂が生じる

・自己犠牲してまで燃えて運動に貢献する人がいる

・知識の多さ、民主的プロセスへの熟知が闘いにおいては重要

・最終的に、温厚で良い人がリーダーに向いている(とくに組織が空中分解に向かう時に交代が必要)

・名前を出さなければ無関心層からの最終的な信任に至らない

・分かりやすいチラシ、直接話すことが大事。最終手段は直筆の手紙

 

あとは資本主義の中では

・資産価値が下がるという訴えが一番無関心層に届く

という現実もあった。

 

 一方で、元理事長は最初、マンションをよくしよう、守ろうとした思いも嘘ではなかっただろう。これも案外、世界の独裁者によく見られることだと思った。

 しかし、大多数の無関心(もめごとを避ける人もいれば、日々の生活に追われて参加できない人もいる)や、加熱する運動と大多数の間の温度差などによって、一度権力の座を手にした独裁者になかなか反対が大きくならない。多数決という民主的制度がいとも簡単に独裁を支える構造になることも大きな感想となった。

チャラン・ポ・ランタンの15周年ライブ「RANTAN-CIRCUS~とおまわりしつつ、とおあまりいつつ~」 歌って最高!

ライブこそ真価!今年突然ハマったチャラン・ポ・ランタン

 チャラン・ポ・ランタンはもちろん前から知っている。『逃げ恥』のオープニングテーマも軽快でいい歌と思っていた。今年に入って何がきっかけなのかもう思い出せないけど、急に集中的に聞くようになった。

 とくに春からある大きな変化を迎えるときは、チャラン・ポ・ランタンAvexから独立する際に発表した『旅立讃歌』に励まされ、そしてとても心躍らせられたのだった。

youtu.be

 中国の幼稚園はおそらくソ連から習ったと思うけど、音楽の先生はピアノではなくアコーディオンを弾くことが多い。そのためかもしれないけど、アコーディオンには馴染みがあったし、その音が好きだった。民謡もシャンソンも好きだし、チャラン・ポ・ランタンの素直で爽快な歌を聞くと、とても気分がいい。

 そしてYouTubeで動画を漁っているうちに思った。チャラン・ポ・ランタンは、PVよりもライブ映像のほうがもっともっと良いのだと気づいた!ライブパフォーマンスは力強く、明るく、楽しい!そこで15周年ライブ「RANTAN-CIRCUS~とおまわりしつつ、とおあまりいつつ~」を申し込んだ。

 会場は品川プリンスホテルのクラブeX、毎年必ず取材で品川プリンスホテルに来るのだが、ライブホールがあるとは知らなかった。(しかも、ボーリング場もフードコートもあるのではないか!楽しそう!笑)

 クラブeXはキャパ300人ほどのこじんまりとした会場だけど、回る円形のステージに360度にできる座席で、チャラン・ポ・ランタンの装飾とともに、サーカスそのものに仕上げられていた!(サーカスに行ったことはないけど…)

 開演前から流れる、どうやら小春さんが直前までギリギリに製作したパトロンのCMたちもとても面白くて、すでに楽しい!

セットリスト

 ほとんどのアルバムは聞いてきたと思うけど、セットリストやパントマイムに込めた15周年の意味をちゃんと理解できたわけではなかったが、ドラマティックで聞き応えがあった。

 ハイテンションの曲の多いチャラン・ポ・ランタンだが、中盤の『空中ブランコ乗りのマリー』から雰囲気が一変し、3・11の直後に作られた『人生のパレード』、コロナ禍中に歌われた『空が晴れたら』と、人生と世の無常、微かだけれど確実な希望を歌い上げた。そして、なにより驚いたのは、小春さんのアコーディオンで悲しみや絶望など多種多様な感情を表現できることだった。いままでの自分のアコーディオンへの浅はかなイメージが覆ったのだった。

 少し気まずい時間もあった。笑 隣の席は母親に連れてこられた10歳ぐらいの女の子。15周年の新曲『明日には忘れて』で夏の一夜の過ち(?!)を歌い、そしてその次に初期の『Oppai Boogie』(こちら私は初めて聞いた笑)でももさんと会場が大盛り上がりで「もみもみ」していた時に、女の子が理解していない風な表情で、律儀に手拍子だけ叩いていた。でも…わが身を振り返ってみる。10歳でもかなり理解できていた、同時に理解できたことを表に出してはいけないとも理解できていたと思う!この子も絶対何もかも意味を分かっていたと、隣でヒヤヒヤし、そしてなんだか少し心を痛めた私だった。汗

 ザ・アンコールのないライブだけれど、最後にはフル尺の『進め、たまに逃げても』や、大好きな『旅立讃歌』『最高』などが盛り込まれ、とても高揚した気分でライブを終えたことができた。

衣装も演出も良き!

 チャラン・ポ・ランタンとカンカンバルカンの皆さんの衣装はいつも可愛いけど、今回もサーカスにぴったりなデザインでとても良かった!チャラン・ポ・ランタンのお二人のお帽子はとくに、映えてて印象に残っている。

 そして、ももさん恒例(はじめてライブに来たけど、ライブ映像はいろいろ観たので…)の「ごめん、お待たせー!急いでるからパジャマで来ちゃった」で現れた衣装は、キラキラしすぎた全身スパンコール!こんな衣装はどこで売っているの?手作り?洗濯どうする?笑 眩しすぎて何回か目をそらしてしまったほど。照明がほとんど消えても、いろんな色の光を放て、まさか電球を仕込んでいないよねと思わずにいられない、歩くミラーボールだった。

 パントマイムや空中ブランコや大道芸(?)の数々も、サーカスを作り上げていった。後でファンのコメントを見たら、パントマイムはどうやらチャラン・ポ・ランタンの歴史を描いたそうだが、あの登山中のクマって、何だったんだろう?!

歌、最高!音楽、最高!またライブに行きたい!

 今回少し残念だったのは、もっとキレッキレの面白いMCを聞きたかったところかな。稼いだお金をやりたいことに湯水のように使うのが周年イベントだと、しんみりする小春さんの話ももちろん良かったけど!本当に、まだまじめに聞き始めて数か月だけれど、やりたいこととことん詰め込まれたステージだっただろうと感じた。

 そして、なにより、本当に本当に、歌が楽しくて、音楽が最高だった!ももさんがとっても楽しそうに歌うし(時々、ライブを労働のようにこなす人がいるよね…)、小春さんが感情をこめてアコーディオンを弾いているし、カンカンバルカンもそれぞれ個性がありながらしっかりステージを支えていた。

 もっともっとたくさんの人にチャラン・ポ・ランタンのライブを聞いてほしいと思ったと同時に、この会場(円形もぴったり!)で距離が近いほうがきっと彼女たちの良さが一番伝わるだろうと、葛藤も感じた。

 これまで行ってきたライブは、Backstreet Boysも、May Dayも、Queen+Adam Lambertも、まあ一生に一度観たいと思って行ってきたんだけれど、チャラン・ポ・ランタンは、何度も行きたいと思った。今度はまず、大道芸のパフォーマンスを観たいなぁ。この『ソトデナイ』は何回観ても最高に楽しい。子どもを詰めているところも現場で見てみたい!

youtu.be

 

※この記事は、ちょうど自分が観た7月20日のマチネをリポートしている。

natalie.mu