最近なぜか「死」「命の終わり方」に関する本やドラマを集中的に読んだり観たりしてきた。タイミングとしてはどれもかなり偶然だが、ちょうど老齢のペットが一度死の淵を彷徨ったのと同時期だったので、より身につまされる思いになった。
佐々涼子のノンフィクション『エンド・オブ・ライフ』もその中の一冊だ。ノンフィクションでありながら、小説のような文体で、重い話題に関わらずサクサクと読み進められた。
www.shueisha-int.co.jp
人はそれぞれ違う。死に関する考え方や感じ方に、「みんなそうだ」ということはあり得ない。本書を読むと、人間が一人ひとり持つ特殊性がより際立って感じる。何を一番大事にしているかも、人によってこんなに違うのだと感心する。
死を目前にして、生活が著しく不便になっても生活でのこだわりを捨てられない人、家族に罰当たりして常に怒る人…私の祖父も足が弱くなっても頑なに杖を拒み、家族が困っていたけれど、それは祖父のプライドだったのだろうと、今はもっと理解できる気がする。また、自分もこだわりやプライドを捨てることができないだろうと思ってしまう。
まあともあれ、こうした人間の持つ唯一無二性を大前提にしてから、いくつかの感想を振り返る。
受容は段階を踏んでいるわけではない
死を受容するのには、必ずしもエリザベス・キューブラー=ロスが提唱した「受容の5段階」(否認→怒り→取引→抑うつ→受容)を順番に踏むわけではないと書かれている。今日受容したと思えば、明日また怒りの段階に戻ってしまう。そして、余命告知の前には「生への未練はない」と話せるが、いざ死に直面するとまた状況が違うこともよくあるらしい。
そして、「運命」たるものを信じるか。すんなり信じなければ、意味を探す旅に出てしまうのである。
病気の意味を探す人
著者の佐々涼子は本書の中で、何度も人間が意味のないことに耐えられない旨を述べている。
病を得ると、人はその困難に何かしらの意味を求めてしまう。自分の痛みの意味、苦しみの意味。人は意味のないことに耐えることができない。だからこそ、自分の生き方を見直してみたくなる。(P184)
これはたしかに多くの人に当てはまることである。現在陰謀論が蔓延ることにも、何もかもに理由と意味と真相を求める人間の性がある。
生きる意味を探し、死ななければならない意味も求める。本書の中には、痛みに「スピリチュアル・ペイン」という種類もあると書かれている。とくに終末期に体験することがあるらしいので、私にはその実体験はないが、意味を絶えず求めてしまう人間には、こうした精神的な苦痛から肉体の痛みを実際きたすことも納得である。
生きる/死ぬ意味と宗教
人間は絶えず「意味」を求めるゆえに、スピリチュアルに傾倒し、宗教に頼る。本書の中に出てく多くの終末期患者もそうであるし、著者の佐々涼子も体調の悪い時期には宗教巡りをしていたと書いている。
意味を探して宗教を信じるようになるのは、生への執念なのかもしれないと思った。私は数年前に亡くなった祖父を思い出す。祖父は最晩年、人生で信じてきた唯物論と違うものをふらふらと頼るようになった。また、理不尽すぎる現実と向き合いながら、宗教を信じるようになった拉致被害者家族や巌さんも思い出す。
しかし、佐々涼子は宗教を知るタイミングも大事だとする。
ひとつだけ経験として得たのは、宗教というのは信じようと思って信じるものではなく、運命的に出会ってしまうものらしいということだ。私と宗教の出会いは、早すぎたのかもしれないし、遅すぎたのかもしれない。もし、私が重い病を得たら、今度は信仰に「落ちる」のかもしれない。だが、少なくとも今は信仰に篤いとは言い難い。(P185)
そういう意味では、家にいるペットは少し前に生死の淵を彷徨ったが、生きるや死ぬの意味を探さずに、ただただ一日一日、ご飯を食べて水を飲んで寝て懸命に生きようとするのは、とても純粋に思える。
死期は予感できるらしい
突然降りかかる事件事故による死は予知できない。でも癌などの病を得る人は迫る死期を予感できると書かれている。しかし、予感できていても、「来年も桜を見られますか」などと曖昧な質問で医者に尋ねる人々の姿も描かれている。興味深いのは、医者から「自分はどう思う?」と聞き返されば、死期はもうすぐ目の前だと受け入れるのである。すでに予感できていることを、医者に希望を求めてしまうが、実は自分でよく知っているらしい。
そして、確実な死期を知ると、不確実性への怖さがなくなり、清々しく無駄なく生きられるという人も多い。
愛する人のために生きたいか、愛する人を介護したいのかーー動けなくても、意思疎通ができなくても
著者の佐々涼子の母親は難病ですでに体が動くことができず、意思疎通もできなくなっている。それでも父親の懇願によって生きることを決意し、そして父親はしっかり最後まで母親をきれいに在宅介護をやり遂げた。
そういう愛の形もあるんだなぁと感心した。その母親は自分がどういう状態であれ、夫が自分がいないと生きていけないと、意志も体も殻に閉じ込められた状態での生を選んだ。そして、その父親は妻とまったく意思疎通ができない状態でも、生きているさえいれば愛し、ケアし、心の安寧を得られると妻に生を選ぶことを懇願した。
私はいままで1度だけ、けがの手術のため入院したことがある。ベッドから降りられなかった2日間だけでも、苦痛で仕方なかった。将来老いを迎えたら、体が自由な時に死にたいと思った。もし自分の意思と思考を伝達する手段を失ったら、それも死と同等だと思っている。だから、体の耐え難い苦痛や治る見込みのない重大な病気になった時、安楽死を選択したいと考える。そのことを、夫にも伝えている。
家はその人そのものだから、家で死にたい
そもそも本書は在宅看護をテーマにしたノンフィクション作品である。佐々涼子も本書の中で指摘しているが、在宅看護の制度ができて以来、在宅看護が病院での看護よりずっと優れたものとして称えられてきた。
しかし、果たしてみんながみんな、家で死ぬことを望んでいるのか。どこかで見たのが、韓国では病院で専門家のケアを受けて死ぬことを望む人が多いんだとか。たぶん中国でもそうだと思う。
佐々涼子の父親は母親の看護を完璧に家でやり遂げたけれど、本書の中に出てくる在宅看護の家族は、疲弊や苛立ちに苛まれる人も少なくない。ケア労働は、クローズドで体力も大変で、そして褒められないものである。中国では「久病床前無孝子」(長い病床の前には親孝行の子どもがいない)と言われるが、私も長く愛する家族の介護をこなす自信はない。そして、自分の介護を、夫にお願いしたいと思わない。
佐々涼子は、みんな家で死を迎えたい理由として、「家はその人そのものだから」と書いている。本書の中に出てくる、家で穏やかに亡くなった人たちの家は、その人の趣味や人生が詰まったようなものである。本人も家族も、家への愛着を強く持っている。
で私は家にそこまで愛着があるか。ファッションや注文住宅を見るのが大好きだけれど、自分で実践したいわけでは全くない。ユニクロの没個性の服が最高に着心地が良いし、画一の都市の現代マンションで十分快適に過ごせている。現に中古マンションに、リフォームをせずに入居して満足している。だから私は、病院のベッドはあまり好きではないけれど、家族に手間と心労をかけるまでして家で死にたいとは、いまは思わない。
そのほかの感想
以前の医療は「治す」行為に重点を置いていた。治る人にだけ相手にするものだった。でも痛みを緩和することや、終末期(つまり治る見込みのない人)への医療行為は無駄だと思われていたようだ。しかし、いまの医療は、治すだけではなく、「癒す」行為でもあるべきだという変化が生じている。
それから、本書で知ったのは、痛みをコントロールする技術はすでに発達しているのに対し、かゆみのコントロールはまだほとんどできないということである。私はたぶん痛みにとても弱い方だと思うが、湿疹ができて痒くて眠れない夜のほうがもっとつらかったように思う。かゆみコントロールの研究も進んでほしいのである。