報道が嫌いになった
報道が嫌いになった。
ああ、なんでこうなったのだろうか。
小さい時からニュースを見るのが好きだった。身近なニュースではなく、国際ニュースをとくに好んで見ていた。不思議なことだね、中国のテレビは国際ニュースを多く流していた。アメリカ、ロシア、西欧諸国はもちろん、中東のことも南米のこともよく見ていて、よく知っていた。戦場報道もたくさん見た。そして、危険な状況で懸命に伝えるジャーナリストの姿に強く惹かれていた。
何より、自分にまったく関係のない人の気持ちに共感できていた。人の苦痛で胸が締めつけられ、人の成功に心が躍る。怪訝な顔をされることも多かったが、ニュースを見ているとよく泣いていた。
だから報道の仕事をしたいと思った。自分もテレビでニュースを伝える、あの中の一員になりたかった。
何事も熱しやすく冷めやすい、趣味という趣味すらない私にとって、この夢だけは、小学校2年生のころから就職するまで、変わらなかった。もっとスムーズに行けた大学もキャリアもあったが、この夢のために冒険して、努力もした。
ああ、なんだかこう書いていると、涙が出そう。
なぜそこまで好きだった報道を、ようやくこの道に入って5年も経たないうちに、ここまで冷めてしまったのだろう。
最近そんな自己嫌悪感に囚われながら、考え続けた。
半年ほど前に長時間労働や所属する番組の方針への反感、人間関係の悩みで心が病んでしまい、一ヶ月間会社を休んだ。その間に、全くと言っていいほど、テレビで報道番組もニュースも見なかった。
これほど長い間報道に触れないなんて想像もしなかったが、意外と苦しくなかった。
その一ヶ月間は、とことん自分だけに専念した。自分の幸せを一番大事にしようと思った。そうしたら、自分の興味関心を新たに発見したことができたし、楽しかった。そして、気持ちがとても楽だった。
でも、職場に戻っても報道への興味関心が実になくなったと気づいてしまった。まるで自分への興味関心と引き換えにしたように。
自分自身に全身全霊を注いだことで、他人のことがどうでもよくなったのかもしれない。今まで共感してきた他人の人生が、どうでもよくなったのだ。
それは、私が長い間現場の取材に出なかったからなのか。関係のない他人と実際触れ合うことで、またそのような共感が私に帰ってきてくれるのだろうか。いや、どうだろう。今の私は、人と付き合うこともどんどん面倒くさくなったのだ。人の人生を共感するのに必要な膨大なエネルギーは、もうあの長期な休み、もっと言えば、あの休みをもたらしたもろもろな事情をきっかけに、私から出せなくなってしまった。出すのが極端に怖くなってしまったのかもしれない。
20年愛してきた「報道」が嫌いになってしまったということは、今の私にはまだたいへん辛くて、困惑することだ。どうすればまた好きになれるのだろうということも日々考えてしまう。しかし、いつか、私は自分自身に最大の興味を向かせることを受け入れるかもしれない、と薄々感じている。
変化の大きく、そして一般的な知識人にとってとても憤りと無力を感じてしまう時代である。この時代から全く離れることはまだないだろう。しかし、この時代に「報道」を持ってアプローチして関与すべきなのか、それとも、一歩引いて冷静に見るほうが自分に合っているのか。
これは、また今度書くことにしよう。