昼想夜夢~Misty’s blog~

ネットの時代にテレビ勤め、ジャーナリズムにはまだほど遠い。学術の落ちこぼれだが、たまに考えたことを言いたくなる。/一介电视人,尚未攀上记者之名。心向学术而力不足。偶有三言两语。

私も縛られた「ダイエット幻想」

 最近ハマっているYouTubeがある。テレビ朝日の三谷紬アナウンサーのダイエット記録である。10キロの目標を掲げて様々なダイエット法に挑戦する三谷アナウンサーが、体重測定の前にこれでもかとスラスラ出てくる言い訳の数々が実に面白い。

www.youtube.com

 たしかに華奢なアナウンサーが多くいる中、三谷アナウンサーはぽっちゃりに見えてしまう。でもとても健康的だし、着物によく似合う美人だ。そこまで痩せる必要はないけど、画面に出る人なんだから、せめてそのお腹をどうにかできないかと、私も思ってしまっていた。

 その三谷アナウンサーの動画にハマっている最中に読んだのは、文化人類学者・磯野真穂氏の『ダイエット幻想』である。

www.chikumashobo.co.jp

 辛うじて社会学を齧っているので、本書の論点の大部分はわかっていたが、可読性と理論がわりかしいいバランスを取れている本であった。興味深いことを何点か挙げてみよう。

 厚労省の調査結果を基に論じられた「結婚相手に望む条件」(P56)では、日本の男性が女性の容姿を重要視することを取り上げている。小さいときに男女問わずに勉学に励むように言われていることが、男性の場合、それが結婚の条件と直結していて矛盾しないに対して、女性は結婚する際に、勉学とまったく関係のない容姿を要求される理不尽な状況に直面することになる。「…年月が経過すると、経済力をつけ、良い職業を持つことが奨励される一方、それよりもまず外見で判断されるという新たなダブルスタンダードが課されます」(P57)と。

 また、女性が集まる場所でよく起こる嫉妬やいざこざについて、先行文献にもあるように、常に「選ぶ」男性に対して、「選ばれる」側に位置することに起因していると指摘している(P97)。女性が社会進出する時代でも、女性誌では「意志ある愛され顔」と二つの相反する要素を売り出している。ボーヴォワールの『第二の性』についても多くの記述があるが、自主性と自立から逃れて、選ばれる、愛される側の「第二の性」に甘んじる女性を痛烈に批判しているらしい(その立場ならではのアーレントユダヤ人への批判も同じようなものなのか)。

 そして、カロリーや糖質、体重などの数字に拘りすぎる結果、「脱文脈化」(P126)が起きると、これもまた核心の突く指摘である。「おいしさ」を失ってしまった食事には、その本来の生きることの意味、食事の目的から遠く離れたのではないかと。

 最後に、私が初見理解できなかった「食べられることは、無限定空間で生きられること」(P172)という部分。「ふつうに食べるとは、そんな刻々と変化する世界に、ふわっと入り込んで身体を馴染ませ、その中でたいした意識をすることもなく、食べ方を微妙に調整しながら心地よく食べられることであり、頭にため込んだ知識で、食べる量や内容を管理することではないのです」(P172)。ちなみに、「無限定空間」については「日々変わり続ける私たちの世界のことを指し、人工知能はこの中でうまく動くことができません」とわかりやすくなるように解釈している(P174)。世界としっかり関わりながら食べることを薦められている。

 私は20代前半まではあまり太らない体質で、かつおじいちゃんやおばあちゃんと同居していて、祖父祖母世帯はしっかりした体格のよく食べる子どもが好きで、ダイエットは絶対ダメとよく言われていたので、あまり体形に気にすることなく育ってきた。それでも、高校の時にお母さんの体重を笑ったりした、大学時代にダイエットに励む映画スターのようないとこを見て痩せたいと思ったりはした。そして、一部のネットユーザーのように、三谷アナウンサーの体形を「あまりテレビに出ている人としてはどうかな」と思ってしまったのだ。

 いままで結婚や女らしさなどなど、さまざまな呪縛に気づき闘ってきたつもりの私は、思わず恥ずかしくなってしまった。そんな気づきをくれた一冊の本ではある。