「村上春樹みたいな文章」
日本語を習って久しくなると、(自分の場合だが)中国語の文章もだんだんおかしくなる。
あるときウェイボーに中国語の投稿をしていると、友人から「村上春樹みたいな文章だね」と返事が来た。
もちろん私の文章がそんな文学的なものやうまく書けているものでは全くなかったのだが、村上春樹がいまの中国の若者にとっては一番親しみのある日本人の物書きだから、「文章が日本語っぽいね」という意味で言われたのだ。
日本語には主語の出番が少なく、主語がなくても成立する。これは中国語や英語との大きな違いだ。だから日本語を学び始めたころには、文を作るときに全部「私は」とか「誰々さんが」とかを入れていたし、日本に来たばかりのころの自己紹介もやはり「私は」「私は」だった。だから「中国人/外国人の自己主張が強いな」とみんな感じるわけだ。まあ、実際言葉に現れたように日本人よりずっと強いけれど。
でも、日本に長くいると、日本語が“自然”になり、主語と自己主張がどんどん抜けていく。それにつられて、母語の中国語の表現も変わってしまった。とにかく主語の使い方がよくわからなくなってしまって使う数がだんだん減っていった。そうして書いた文章は良く言えば「柔らかい含みのあるもの」で、悪く言えば「はっきりしなくて歯切れの悪いもの」になったのだ。だからウェイボーの投稿もそう言われることになったと私は思う。
しかし、思考と言語は最初に考えた以上にリンクしていて、違う言語をしゃべるときの自分の声やトーンが違うし、思考回路も異なれば性格さえ変わる。日本語の話す時間が断然に多くなった今では、自分の性格も内向きになりすぎたと少なからず悔やんでしまっている。