美食のフランス~「美食の社会史」読後感~
ノートルダム大聖堂のあの恐ろしい火災の後、日本で支援金を募集する動きがあった。届いた取材のお知らせに有名なシェフらが名を連ねている。さすが美食の国なのだと感心しきりだった。
そんな中で読んだのは「美食の社会史」だった。1991年に出版された本で、社会史として非常に緻密に書かれ、「フランス料理の源流」「都市型食生活モデル」「階級による食生活の差異」「ぶどう酒の社会的役割」「レストランの意味」で論述された。
引用された文献が豊富で、描写も生き生き。読んでいると当時はきっとこうだっただろうと情景が浮かんでくる。1783年のグリモの「有名な夜食会」なんて、料理はさておき、あの儀式的な形式は本当に目を開くものであった。(夜から翌日までの開催は本当にしんどそうだが)ステレオタイプのフランスそのものだ。そして、グリモが作家だが、文学的だなとも感じた。
無論、上流社会が享受していた美食は平民階級に届くはずもなく、階級的な差が非常に多かった。(ふつうの家庭でぶどう酒を消毒用ということで毎日子どもに与えていた、しかも教育委員会公認だなんてびっくりしたが。)
それでも、パリの人々にとっては食事は大事な、大事なものだった。村上春樹が読者への返信では「香川の人がうどんを食べられなくなったらきっと革命を起こすだろう」と言ったように、本書を読むとパリの人々も食事が保証されなければ革命を辞さないだろうと改めて確信を持った。それは、本書に貢献した膨大な食に関する資料がフランスに存在することにも証明されているだろう。
いまも毎週「黄色ベスト運動」が行われるように、フランスは市民革命を成功させた国であり、革命思想と理想を強く持っている国だ。本書にもあるように、市民が集まる外食の場は(一部役割が誇張されていながらも)デモの出発地になったり革命思想が広がる場になったりと深く関わっている。フランスの「美食」と「革命」は、やはりつながっていたのだ。
余談だが、著者も指摘しているように、日本の「伝統文化」と同じように、フランス料理などの伝統も、しっかり辿れば、せいぜい100年200年の歴史、なんてものが多い。いや、どこの国も同じだね。中国のチャイナドレスなんかも民国時代からのものだし、「伝統」なんてものの本質を知らずにナショナリズムに扇動されたらたまらないね。
「村上春樹みたいな文章」
日本語を習って久しくなると、(自分の場合だが)中国語の文章もだんだんおかしくなる。
あるときウェイボーに中国語の投稿をしていると、友人から「村上春樹みたいな文章だね」と返事が来た。
もちろん私の文章がそんな文学的なものやうまく書けているものでは全くなかったのだが、村上春樹がいまの中国の若者にとっては一番親しみのある日本人の物書きだから、「文章が日本語っぽいね」という意味で言われたのだ。
日本語には主語の出番が少なく、主語がなくても成立する。これは中国語や英語との大きな違いだ。だから日本語を学び始めたころには、文を作るときに全部「私は」とか「誰々さんが」とかを入れていたし、日本に来たばかりのころの自己紹介もやはり「私は」「私は」だった。だから「中国人/外国人の自己主張が強いな」とみんな感じるわけだ。まあ、実際言葉に現れたように日本人よりずっと強いけれど。
でも、日本に長くいると、日本語が“自然”になり、主語と自己主張がどんどん抜けていく。それにつられて、母語の中国語の表現も変わってしまった。とにかく主語の使い方がよくわからなくなってしまって使う数がだんだん減っていった。そうして書いた文章は良く言えば「柔らかい含みのあるもの」で、悪く言えば「はっきりしなくて歯切れの悪いもの」になったのだ。だからウェイボーの投稿もそう言われることになったと私は思う。
しかし、思考と言語は最初に考えた以上にリンクしていて、違う言語をしゃべるときの自分の声やトーンが違うし、思考回路も異なれば性格さえ変わる。日本語の話す時間が断然に多くなった今では、自分の性格も内向きになりすぎたと少なからず悔やんでしまっている。
村上春樹の「職業としての小説家」
村上春樹の「職業としての小説家」を読んだ。
毎日1時間走り、健康に気を遣い、きっちりしている生活は、確かに作家のステレオタイプとかけ離れている。酒や女の溺れ、破滅寸前の人生を送っている人こそ偉大な小説家になれると思っていたのはもちろん私だけではなかった。
書きたくても書きたくなくても、一日に400文字の原稿用紙分量を10ページほど書くペースを保つようにするところとか、その修正作業のサークルとか、もはや優秀な研究者の姿である。書くこともフィジカルで体力が極めて大事な作業だという認識も、さすがプロフェッショナル。ふつうの仕事に通ずるものばかりで、とても感心した。それと同時に、村上春樹を面白く思わない人が多いのも、そういうところからなのかもしれないとしみじみ思った。
しかし、本書で小説の書き方を読めば読むほど、(書いてはいないが)自分はやはり小説は書けないとますます思ってきた。人を観察するのは好きだけれど、初対面から結構人をジャッジするし、物事への判断が早いし、学校が大好きで喜んで通っていたし、小説を読む量は全然足りていないし、物事は浅く広くやるほうで突き詰めないし…
そういえば、以前取材した中国の大作家閻連科さんが「自分の書く人物はたとえ殺人鬼でも愛することが大事だ」とおっしゃっていたが、善悪に対してあまりにもはっきりした感情を持つ自分はフィクションに向いていないなと思っていたこともあったなぁ。
ところで、村上春樹が進んで「海外へ出ていく。新しいフロンティア」に挑戦するのだが、自分の作品が海外で売れるタイミングについて「その国の社会の基盤に何かしら大きな動揺があった後に」と分析する。東欧の共産主義の崩壊など「希望と不安をないまぜにした『柔らかなカオス』がひたひたと押し寄せてくる」状況を指していて、「僕の提供する物語が新しい自然なリアリティーのようなものを急速に帯び始めたのではないか」という。
なるほどと思わずうなずいた。東アジアでの受容は早い段階からで欧米と違うと村上本人が言うが、中国での流行もそういう要素があるのかもしれない。
毎年「ノーベル賞」を取るか取らないかでメディアが必ず騒ぐのだが、村上春樹の小説はノーベル賞が好むような社会性がないから絶対取らないと思う。しかし、彼の小説を読むと、現代社会に生きる人々の抱く虚無感や社会からの距離感はありありと、ひしひしと響いてくるのだ。ちゃんと読むと決して時代や歴史や社会を置き去りにしている小説ではなくて、村上春樹が経験している学生運動の時代や、戦争の話や、新興宗教の話や、資本主義と消費社会がしっかりと小説の裏にはある。その感覚は国境を超えて現代を生きる世界中の人に響いているのではないか。
村上春樹小説の中国での流行史を調べたら面白いのかもしれないね。
母がバリキャリ~その一
私の母はバリバリのキャリアウーマンで、父より何倍もの給料を稼いでいて、会社ではナンバー2でCなんじゃらOである。
日本ではこういう母親はごく特殊なのかもしれないが、中国では決して珍しくない。
母が大学卒業後、「分配」で国営企業で就職した。当時ではごくごく普通のことだった。私は小さい頃、よく母親の職場で遊んでいた。危ない資材で手を切ったりもしたし、母の同僚のおばさんたちに遊んでもらったりもした。
非常に安定した企業だったのだが、母が早い段階で飛び出そうとした。私が小学生高学年のころ、母が外資企業への転職を考えた。外資なのでもちろん英語が必要になってくるのだが、母の時代の大学生は受験に英語が必要なかったし、外国人や外国のコンテンツはほぼ入っていない時代だったし、母の英語は「How do you do」の程度だった。
外資企業の面接まで1ヶ月しかないが、母は諦めなかった。仕事をしながら英語の勉強を始めた母が、どんな短い時間でも勉強に費やした。夜中にトイレで起きるときも、枕の横に置いてあるレコーダーのボタンを押して英語のカセットテープを流した。(父はだいぶ迷惑がっていたが。)
たったの一ヶ月で勉強した英語だが、母が面接で外国人と専門用語を交えて歓談したらしい。そして、転職が順調に決まった。
泣き虫だった私
幼稚園からの幼馴染に子どもが生まれた。その幼馴染から連絡があって、子どもが私の写真を指して「おばちゃん!」と呼んでくれたのだが、横にいた幼馴染の父親が「このおばちゃんはね、幼稚園のときにま~いにち泣いていたよ」と暴露したらしい。
おいおい、ちょっとおじさん、暴露は良くないぞ!
と言いながらも、確かに私はひどい泣き虫だった。毎日幼稚園に行くのが嫌で、毎朝登園の道のりでも泣いて、着いて親から先生に引き渡されても泣いて、昼ごはん食べながらも泣いて、お昼寝もせずおばあちゃんがまだ来ないかと泣いて(寝る時間が与えられているのに寝ないなんてなんと愚か!)…とにかく泣いてばかりだった。
両親にとってはさぞ面倒くさかったでしょう。小学校低学年のときも何かあればすぐ泣いていたから、しょっちゅうお父さんに「泣かないで!」と叱られていた。そう言われるたびに唇を噛んでうつ向いて我慢していたが、ますます泣きたくなるんだよな。
そんな泣き虫の私が、小学校4年生でピタッと自分のために泣かなくなった。隣の席の男の子にちょっかい出されて、いつも泣くことしか知らなかった私だったが、あの日なぜか怒って思いっきりその子を殴りかかって大喧嘩した。その日から、(まったくとは言わないが)泣かなくなった。
いまの私というと、テレビや映画を見るとすぐうるうるしちゃうけれど、自分のことで泣くのはやはりそこまで多くない。
嫌な先輩にいじめられて会社のトイレで泣いてしまったのはあまり人に言えないが。
蔦屋書店 来月閉店
近所の蔦屋書店が来月閉店することになった。きのう久しぶりに行ってみたら入り口付近の棚がガラガラで落ち着かない雰囲気を感じ取ったが、階段を上がるときに「閉店のお知らせ」を発見したのだ。
この蔦屋書店は数年前まではDVDやCDをレンタルする普通の「TSUTAYA」だったが、1年前か2年前からか、木目調のオシャレな「蔦屋書店」に変身。それもTULLY'Sカフェを併設した、なんとも今どきの書店となっている。
正直、蔦屋書店の本のセンスにとても感心できないし、だいたいゴミみたいな本ばっかり売ってんなぁと思うことも多いけれど、たまに静かな場所がほしかったり、ちょっと興味があるけれど絶対買わないだろうビジネス書があったりすると、休日に朝食を食べながらパラパラ読むのになんだかんだ便利な場所だから、さすがに閉店のお知らせを見ると少しばかり寂しい気持ちにもなる。(まあ、自分の利用シーンを考えるとやはり閉店は無理もないが…)
高校のころに大好きなアメリカ映画「You've got mail」の中で、Meg Ryanがコツコツと街角でやっている小さな本屋さんが、Tom Hanksが経営する大手チェーンにお客さんが奪われた。あれが90年代の象徴だが、そういう大手チェーンもまた今、ネット販売に顧客を奪われてしまったのだ。
Amazonがどんどんマーケットを拡大している今、自分を含め、書籍の購入をネットで済ます人が圧倒的に多いのではないだろうか。探したい本がないこともないし、家まで届けてくれるし、とても便利。(この時代に意外と息を吹き返しているのは、古本屋さんというのは余談だが。)TSUTAYAが生業にしていた、映像の貸出サービスもそうだ。
時代なんだから、私はとくに街の本屋とビデオ屋が消えていくことを嘆いたりはしない。時代は、認めたほうがいいと思っている。
しかし確かに早い、時代の変化が早すぎる。ほんの3年ぐらい前まで、TSUTAYAの定額プランでDVD郵送を利用して、週末は映画三昧の日々を送っていたが、いまじゃNetflixとAmazonPrimeでは十分すぎる品揃えで、とてもDVDはいらない。家の近所のTSUTAYAを見ると、きっとTSUTAYAもまだストリーミング配信の様子を見ようと少しだけボーとしていたら、一気に時代に見捨てられて、慌ててオシャレなカフェ併設の書店に変身を図ろうが、やはり書店もネットの時代に逆らえなかった。
これから5Gの時代になるんだから、変化がもっと早くなるのではないかと、ハラハラしちゃう。
閉店まであと1ヶ月ほど、また1回や2回ぐらい、蔦屋書店を訪れるかもしれない。そして、きのうそこでパラパラした自己啓発書にある「習慣化」を、毎日ブログを書いてみることで実践したいと思う。なんとも皮肉だね。
「NZのことはなぜニュースなの?」
「ちょっと、ニュージーランドのことは、なぜニュースなの?」
そのデスクの質問を聞いて、何を聞こうとしているのか理解できなくて、数秒の沈黙が続いた。
同じ報道セクションにもたくさんの部門がある。ニュースに対する理解は部によって違っていたり、どのぐらいの重要度を持つのかの判断が異なっていたりするのは常である。しかし50人もの命を奪った白人至上主義者によるテロ事件の翌日に、そのニュース価値を疑うのはなかなかの衝撃だった。
その疑いの理由は、日本の報道機関で仕事をするとよく聞くものだろう。「日本と遠いんだよね」と。
イエローモンキーはこう叫んだ。「ニュースキャスターは嬉しそうに、乗客に日本人はいませんでした、いませんでした」と。
世界中でどんなに大きな事件や事故が起きても、まずは現地の日本大使館に連絡を取り、「日本人が巻き込まれたかどうか」を確認する。原稿にも必ずその情報を入れる。
メディアとしては当然だ。メディアは国民国家や民族を基盤にしていて、メディアとはナショナリズムの具現化であり、ときにはその最大の表現者でもある。
それにしてもだ。
日本のテレビばかり見ていると、世界のことがまったくわからなくなるのだ。あまりにも内向きの報道ばかりで、この島国に直接な関係がなければまるでニュースではない。パレスチナもイスラエルも、インドもパキスタンも、ナイジェリアもコンゴも、ベネズエラもキューバも、この国に直接関係がないからニュースではない。何人死んでも、世界にどんな影響を与えてもだ。
おかしなことだ。日本で報道の仕事に就いてるいまよりも、母国で高校に通っていた頃のほうが、国際情勢にずっと詳しかったのだ。
少子高齢化、外国人労働者、観光立国、安全保障…本当に国際ニュースと無縁なのだろうか。
「ニュージーランドのことはなぜニュースなの?」そのデスクの頭を思いっきり叩くと同時に、「日本はもう世界から隔絶したアイランドではない。この時代を甘く見るんじゃないよ、ボケ!」と言いたい。