昼想夜夢~Misty’s blog~

ネットの時代にテレビ勤め、ジャーナリズムにはまだほど遠い。学術の落ちこぼれだが、たまに考えたことを言いたくなる。/一介电视人,尚未攀上记者之名。心向学术而力不足。偶有三言两语。

新型コロナ 中国は「よく頑張った」のか?

 中国外務省の新任報道官のアメリカへの攻撃が止まりません。

 数日前に頓珍漢な陰謀論を口説く文章を引用して、米軍が武漢にウイルスを持ち込んだと主張したときは、ツイッターで味を占めた外交官の暴走やもしれないと思っていたが、繰り返し主張しているところを見ると、上意を受けての発言だといまさらながら悟り、さらに嫌気が差してしまったのであった。

 世界で新型コロナウイルスの拡大に歯止めがかからない中、中国のほうはすっかり沈静している。むしろ、毎日「きょうは逆輸入の感染者のみ」とか「イタリアが中国を超えた」などと海外の窮状を宣伝する報道ばかり。そして、「中国が忍耐強く頑張った。世界から感謝すべきだ」と言い出す始末。

 そう、中国人が忍耐強く頑張った、武漢の人々が信じられないほど我慢した。見捨てられていようが理不尽な対策をされようが、家から一歩も出ず、文句を言わずに堪えて、感染拡大を抑え込むことができた。

 でも、政府が言うのは違う。最初に情報隠蔽を図ったのも政府(しかも李文亮医師の調査報告で責任を小さな警察署に責任を押し付けた)、物流も医療態勢も整えずに武漢を閉鎖したのも政府(ウェイボーで病院に行けないと悲痛な声を上げた人々をもうお忘れ?)。自分の失策を反省して、「中国の人民はよく頑張った」と、政府の言うことをよく聞いて、我慢強くて、危機的状況に陥れば個人よりも全体を大事にする国民に感謝すべきだと強く思う。

 確かに、新型コロナウイルスがまさかここまで世界で広がるとは予想していなかった。とくに欧米の現状を見ると、開いた口が塞がらない。各国政府も中国政府よりはるかに賢いわけではないことが、よく分かった。しかし、いまは贖罪とまでいかなくても、中国が世界に謙虚で貢献すべき時だ。「中国はよく頑張った」と自画自賛するのではなく。

テレワーク不適合者

 新型コロナウイルスのおかげ、いや、のせいで、人生初のテレワークデイが決まった。まさかこの職業でもテレワークができるなんて、とても予想できなかったが、感染症で社会も会社も急に動き出したのだ。

 満員電車に乗らなくて済むし、洋服選びも化粧もいらない、お昼は自炊できる、なんて考えたらとってもワクワクしてしまい、小学生みたいに、前日の夜に興奮しすぎてよく眠れなかった。我ながら情けない。

 テレワークデイ。早めに会社のパソコンを立ち上げ、VPNをつなげ、社内システムにログイン。パソコンが小さいので、夫のPCスタンドやキーボードも借りてセット。おいしいお紅茶も淹れた。

 さて、この日のデスクは容赦ない。かなりの仕事をテレワーカーに振ってくる。いや、これは正しいと思う。本社にいる人間は、鳴りやまない電話やしきりに来る問い合わせに対応しなければならないんだから。しかし、家での作業はすべてのシステムが会社より数秒ほど遅れる小さなストレスの積み重ねに苛まれるうえ、会社の雰囲気がわからなく、勝手に一人で壮絶な追い込みタイム。変なドキドキが止まらなくて、昼過ぎにとうとう「救心」を飲む羽目になってしまった。

 そして午後になると、「ああ、誰かとおしゃべりしたい」と思うようになってしまった。テレワークを少しだけ早めに試した人も「孤独」と言っていた。この日をあんなに心待ちにしていた私も、やはり人と関わりたい、他愛のない話をしたいと思ってしまった。こんな話を夫にしたら、「意味わからない」と驚かれたが、やはりコミュニケーションへの渇望がある人がこの業界に集まっていると改めて思った。

 これであまりストレス軽減にもつながらず、かえって寂しいという感情を味わってしまったちょっとがっかりなテレワークデイが終わってしまったわけである。

 今度、出社することが大きな楽しみになってしまったのだ。

「トイレットペーパーが消えた」

 びっくりした。店の棚からマスクだけではなく、トイレットペーパーやキッチンペーパーなどの紙類もごっそりなくなっていた。

 あんなに大量の紙を買って、いったいどこに収納するんだと、日本の住居の狭さにようやく慣れてきた私は不思議でならない。

 第一、トイレットペーパーの買い占めが始まったのは、デマが発端だ。「中国で生産」、そして「マスクと同じ原料」。どちらも真っ赤なウソだと早い段階で報道もされているが、テレビのインタビューに答える人はこう言う。「デマだとわかっているが、念のため買った。」

 ここまで来たらもう手の打ちようがない。とも思ったが、ネットでメディアの報道への批判も上がっていた。「空っぽの棚ばかり報じるからみんな焦って買うんだよ」と。

 最初は恒例の「マスゴミ論」に見えてカチンときたけれど、冷静に考えたら確かにそうである。我々は現在人手も取材費も潤沢ではない状況に置かれ、このように現象だけに留まる報道をすることが多くなってきている。まして今や視聴者投稿に頼る時代でもある。

 ここで好評を呼ぶのは「トイレットペーパーのダウンボールがわんさか積んである倉庫の写真」を載せた報道である。 倉庫を見ると、ああ急いで買わなくても大丈夫だ、と確実にそう思うだから。

 日々新しいことがあると思っていた報道の仕事でも、慣れれば日々の作業になってしまう。ついつい惰性で仕事をこなしてしまうが、何が社会に一番役立つのか、それをどう表現すればいいのかをしっかり考えてやるべきだと改めて思った。当たり前のことだが。

悪口を言うべからず

 そんなもうわかり切ったことだと思ったが、あまりにも人の悪口を裏でいう人が多すぎる。

 社会人になってから、人の悪口を無理やり聞かされるのは一番精神的な負担だった。ここの部署の良かったところは、みんな自分の生活を大事にすることで、いい意味で人に興味がなく、人の悪口もあまり言わなかったことだ。

 しかし最近、人の悪口を言うことが多くなってきた。きょうはAがBに対してCの悪口を吐き出すところを目撃することになったが、Aが声高に主張していたCのダメなところは、実はBのコンプレックスであることは、Aが気付いていないのだろうか。Bはグサッと心を刺されたような気持ちになったのではないだろうか。

 悪口は伝い歩きして人を傷つけるのだけではない、目の前にいる人を速攻傷つけることにも高い確率になり得るとしみじみ。

 悪口を、言うべからず!不満があれば、その人に直接指摘しよう!

前途多難な船出

 博士課程入試の結果が出た。受かった。受かってしまった。

 もちろん受かりたくなければ出願なんてするわけがなかったが、面接がぼっろぼろに終わり、自信喪失しているのである。

 大学院の建物に入ったのは図書館の利用以外、7年ぶりであった。それだけでも十分緊張感があるが、面接会場のドアを開けた瞬間、予想しなかった教授の布陣でさらにひるんでしまったのである。

 20分の発表は十分練習したので、そつなくこなせたのだが、その後は20分の質疑応答。20分も!早くその時間が過ぎないのかと祈っていたが、質問が矢継ぎ早に飛んできた。学術の世界から離れて7年、教授がいつも言っていた「ディフェンス!ディフェンス!」は頭の隅にあったとしてもなかなか実行できなく、あっさり「勉強不足ですみません、今後の課題とさせていただきます」と白旗を上げたのであった。

 あまりにも何も答えられなくて、時間がそう経っていないうちから「消えたい!!」の念で頭いっぱいになってしまった。試験が終了したとき、あまりの恥ずかしさで、よく知っている教授陣と目を合わせることすらできなかった。

 自分の学問のベースがしっかりしていないこと、修論が断片的でフレームがダメだということなどなど…わかっていながら積極的に改善しなかったことは、悔やむばかり。そんな自分がもうダメだ、こんな恥ずかしい試験結果でむしろ落としてくれと一週間気をもんでいた。

 受かったとしても、前途多難だ、と思っていた。いまも思っている。ダメダメなレベルから這い上がることができるのか、コツコツと頑張るしかないと、まだちょっと気乗りでない自分に聞かせている。

ポリコレのハリウッド

 ネットフリックスで新しいファッション番組を見始めた。「ネックスト・イン・ファッション」。

 以前はシリーズ化されていた「プロジェクト・ランウェイ」を大好きで観たが、今回は似ているようで全く違う。試合のルールは似ている、MCは男女二人のペア、ランウェイのあとの結果宣告も同じ形式。

 しかし参加者とその描写は違う。今回の番組は明らかにあらゆる人種と背景をバランス良く配置した。そしてその生まれ育ちとLGBTであるゆえの葛藤を感傷的に描いている。ファッションでその背景をいかに生かされているのかも評価の大きなポイント。たとえばゲイのデザイナーがレインボー色を大胆に使った服がメッセージ性で大きく評価された。東アジアの女性二人組のデザインがランウェイでピンと来ないと言われたが、文化的な背景を紹介したところ、「ストーリー性がある」と高評価を得ることができた。

 そして、象徴的なのは、脱落ギリギリの黒人女性コンビが泣き出し、ファッション業界で黒人がキャリアを築くことの難しさと文化の盗用問題を訴えた。審判の一人である黒人デザイナーもそれに同調し、その結果、まさかの脱落なしの回になった。

 うん…私は自分で全然おしゃれしない人だけれど、なぜかファッションの番組が大好きだ。それは純粋にファッションの美しさを見惚れていたいから。しかし、いまはやはり背後のメッセージ性、そしてポリティカル・コレクトネスを大きく考慮しないといけなくなったのか。

 ネットフリックスでポリコレを見るのは、このシリーズだけではない。そしてハリウッドでポリコレの重さを感じるのも、ネットフリックスだけではない。

 なんだかとても窮屈な時代だ。純粋な美を楽しみたい、そう思っていた。

 

2月18日 シリーズ1を視聴終了。しかし、すごいですね、参加者の仲良さにびっくり。いままでのリアリティショーは、人間関係の悪さが売りの一つでしたが、なんという心温まる作品でしょう。争いたくない、というのもとても今風ですが。

数字的背后是人生

    新型冠状病毒的数字一天天的更新,每天早上醒来就是先拿起手机,看看湖北的数字。全国的数字已经连续下跌超过一周了,但是湖北尤其是武汉的数字,并没有让人感到有希望。

    但是数字看多了总会麻痹,渐渐的会忘记这些数字背后是一个个鲜活的生命,忘记他们都有一个个独特的人生。

    日本的新闻界现在面临着社会越来越不接受实名报道的难题,而我们甚至还从来没有到达过实名制的那个阶段。我们看到自媒体或者商业媒体(财新,界面)上的个人的叙事,才会设身处地,才会把新闻当成自己的事情。而政府与官媒,也许是刻意不公布个人的名字的,没有了名字他们就只是一个个数字,他们就没有了故事,没有了让人共鸣的要素。

    这依然是一个只要集体的利益得到保障,个人是可以并且应该被牺牲的国家。希望每一个还没有被牺牲的人,会想一想,在2020年,自己还愿不愿意生活在这样的国家。